すまいる*あげいん
それは、ある夏の日。私は彼に出会ったんだ。近くて遠い、先輩に。
「先輩、じゃじゃーんっ」
「それが、何」
いつものように軽くあしらわれて、咲野唯衣の朝は始まった。相手もいつものように花に水をやりながら、唯衣のことも見ないでいた。
「むー。せっかく百均で鼻眼鏡買ってきたのにぃ」
「もっと違うことに頭使えば?」
この冷たい先輩・神谷夏は、さっさと水やりを済ませて、校舎に入っていった。で、唯衣は一人取り残された。今日こそは神谷先輩よりも早く学校に来ようとしたのに、結局今朝も負けてしまった。……たぶん全敗。
まだまだ学校が始まるまで時間があるので、唯衣は花壇の淵に座り込んだ。
あれは、夏休みの最初の日。唯衣は課題を学校に忘れて、誰もいない学校に入っていった。いつもなら部活をしていて、休みでも結構賑やかなのだが、今日は殆どの部が試合に行ったらしい。またその時は午後になっていたので、残った部も練習を終えたようだ。しん、と静まり返った廊下を一人歩く。
目的の物を見つけて帰ろうとしたとき、何気なくふと窓の外を見た。丁度そこは園芸部の花壇で、たくさんの向日葵が夏の日差しを浴びてきらきら輝いていた。
「綺麗……かも」
もっと近くで見てみたい、と思った唯衣はすぐに校舎から出て、花壇の方に走っていった。学校の敷地のほんの隅にある園芸部の花壇に。
園芸部、と言ってももう廃部したも同然の部だ。ただ昔の名残で残っていた花壇は唯衣が入学した当初からずっと花が咲き続けている。噂では二年の先輩が一人、園芸部にいるらしい。
向日葵が咲き誇る花壇の前に、唯衣は立った。少しだけ離れて見てみる。空の青と向日葵の黄色のコントラストが綺麗だった。しばらくそのまま眺めていると、何処からか水が飛んできた。
「ひゃぁっ」
「うわ、すみません」
向日葵の陰から出てきた少年は、水が出たままのホースを手にしていた。誤って水を飛ばしてしまったのだろう。それが唯衣に当たった、と。
「だ、大丈夫です」
「大丈夫そうじゃないじゃん、びしょ濡れ」
そう言って、その人は鞄のところへ走っていくと、タオルを唯衣の方へ投げた。ありがとうございます、と呟いて、そのタオルで制服を拭いていく。……あれ?
「あーっ! し、宿題がぁ」
手にしていた課題は制服同様びしょ濡れだった。しかもよりによって数学。確か五十ページくらいだったような。急いでタオルで水気を吸い取ろうとしたが、既に手遅れで印刷された文字も滲んでしまっていた。
「あちゃー、君、一年? 二年のならあるけど、一年はな……」
さすがに無いな、と水浸しにした張本人が苦笑した。
「どうしよう……」
数学の先生は怖いで有名。唯衣にしたら、どの先生も怖いのだけれども。目に涙を浮かべておろおろしていると、目の前の彼がぷっと吹き出した。
「あははっ、大丈夫だって、俺が言いに行ってくるから。貸して」
斉藤だよね、と聞かれて、頷きながら彼に課題を渡した。ちょっと待っててね、と言い残して、彼はその場を離れた。
唯衣は借りたタオルで制服を拭きながら、彼が戻ってくるのを待っていた。二年ってことは噂の園芸部、かな。でも男の人だし。とそんなことを考えているうちに、彼は新しい課題を手にして戻ってきた。ごめんね、ともう一度謝られながら、唯衣はそれを受け取り、その場を後にした。
それが神谷夏との出会い。
「あれー唯衣、今日も失敗?」
「うん……なんで笑わないのかな、ホントに」
「神谷先輩が笑うわけ無いじゃん」
「笑ったよ」
「だから、見間違いじゃないの? まぁ、神谷先輩も笑えばかっこいいのにねぇ」
玄関のところで、友達の美草に会った。同じクラスなので、そのまま二人で話しながら教室に向かう。
「唯衣も本当に懲りないね。挙句の果てに園芸部に入っちゃっているし」
そう、あれから何度か花壇に通いつめて、神谷先輩に入部届けを出したのだ。今もあの怪訝そうな顔を覚えている。そして。美草の言う通り、あの日から一度も笑っていない。なんとか笑わせようと毎日頑張っているんだけど。
「まぁ、頑張れ。いつかは届くんじゃない、唯衣の気持ち」
「気持ち?」
「好きなんでしょ、先輩」
美草はニタニタと笑いながら、唯衣の肩を叩いた。違う、と反論しながら、唯衣は心の何処かで思う。もし……もしも、もう一度彼が自分に笑ってくれたなら。
その先は、唯衣自身にも分からない。
「で、なんだよ、こんなところまで」
昼休みになって、唯衣は美草と一緒に神谷先輩の教室を訪れた。そう意味は無い。答えに悩んでいると、美草が後ろから言った。
「神谷先輩はどうしてそんなに無愛想なのか聞きたいんですって」
「美草ちゃんっ?」
「あら、本当のことじゃない」
「……別に、そんなこと関係ないだろ、お前らに」
神谷先輩はそう答えると、何事も無かったように自分の席に戻っていった。周りは騒がしく友達と昼食を共にする中、先輩は一人窓際の席でパンを齧っていた。丁度窓の下には園芸部の花壇。それを時折眺めながら、黙々と昼食を取っていた。
「クラスでも笑わないだね、先輩」
「……だね」
先輩は笑わない。それどころか人との関わりを最小限にしている。なんだかそんな先輩が寂しく見えた。
日本史の授業はつまらない。夏はそう感じながら、いつものように窓の外を眺めた。運動場では何処かのクラスがサッカーをしている。じっとそれを眺めていると、一人の女の子が転んだ。
「……咲野、またこけた」
確か先週の体育でも転んでいた。その日の放課後、膝に大きな絆創膏をつけていたのを覚えている。そして先週と同じように、すぐに咲野に駆け寄る姿が見えた。昼休みに咲野と一緒に来ていた子だろう。端から見ると、友達というよりも姉妹のようだった。
咲野の怪我は先週より軽かったらしく、サッカーはすぐに再開された。自然と咲野を見ていた自分が可笑しくなって、少しだけ口元に笑みを浮かべた。
我慢比べは、もうすぐ終わりそうだ。
「いったーい」
「もうっ、毎週体育で怪我をするなんて、小学生ですか!」
先生に文句を言われながら、唯衣は痛みを堪えていた。先週と比べればまだ小さな傷だが、沁みるものは沁みる。歪めた顔を見て、付き添ってきた美草は笑っていた。
「そ、その顔、先輩に見せたら、絶対笑うよ」
「うるさいっ! 恥ずかしくて見せられませんー」
小さな絆創膏を張りながら、唯衣はベーっと舌を出した。好きでそんな顔したんじゃないし。
「あ、そうそう。今日私も園芸部行っていい?」
「別にいいけど。和くんは?」
「県外に遠征。日曜までいないの」
和くんとは美草の幼馴染。彼氏……寸前なんだとか。相思相愛なのだから、さっさとくっつけばいいのに。なんて、毎回言う度に神谷先輩の話題を出されるので、今は自粛中だ。いや、話題にするのは別に構わないのだけど、内容が、ね。言ったら可哀想なので言わないけど。
そのうち強制的に退室を強いられ、唯衣と美草はホームルーム中の教室へと戻っていった。
放課後、花壇に向かうと珍しく先輩の姿はなかった。まぁ園芸部の活動なんてないにも等しいのだが。新しい花を植える準備が整っている花壇は少しだけ寂しい。でも、もうすぐ冬だからこの寂しさも愛しく思える。
「先輩、いないね。帰ったのかな」
「うーん。いつも私が来たらすぐに帰るし……そうかもしれない」
「え、いつも待ってるの?」
「待ってるわけじゃないだろうけど」
へぇ、と美草は花壇の周りを見渡した。そして、植木の方で一瞬目を留めたと思うと、悪戯を思いついた子供のような顔をして、唯衣を見た。何がなんだか分からない唯衣は首を傾げた。植木の方に何かあるのかな、と思い、見に行こうとすると美草が話しかけてきた。
「ねぇ、唯衣は神谷先輩に告白しないの?」
「はい? 何をいきなり言うの」
「いいから、いいから。どうなの?」
「……しないよ。美草ちゃんの方のこそどうなの」
「んー、唯衣がしたらするかな」
いつ美草に先輩が好きだというようなことを言ったのだろう。唯衣にはそんな覚えはない。というか、まだ好きかどうかなんて、唯衣には分からなかった。
「じゃあ、しようか?」
振られることは分かりきっていたので、唯衣はため息をつきながら言った。美草と和くんもそろそろくっつくべきだろうから。そのためなら、別に。
「……唯衣、先輩のこと、好き?」
美草はさっきよりも声を潜めて尋ねた。その顔はいつになく真剣だった。
「……さぁ。分からない」
「じゃ、告白できないじゃん」
そんなんじゃ、先輩傷つけるだけだよ、と美草は言った。そう思うならそんなこと聞くなよ、と唯衣は思った。でも。
もう一度美草が目を留めた植木に目をやった。誰か、いるのだろうか。……先輩がいるのだろうか。
「……ね、美草」
「なぁに?」
「私、先輩の笑顔好きだよ。だから、もう一度私に笑ってくれたら好きになるかもしれない」
唯衣は植木から視線を外して、空を見上げた。白い雲が流れている青い空。あの日のことを思い出しながら、唯衣は言った。
「ふぅん、だって先輩」
唯衣は美草を見た。美草はあの植木の方に顔を向けていて、案の定そこから先輩が出てきた。
「何が」
「こうなったら、笑うしかないんじゃないですか?」
美草が笑顔で先輩に言った。唯衣は先輩が笑うかどうか分からないまま、その顔を眺めていた。先輩も唯衣を見て、二人の視線は絡んだ。
しばらく見詰め合ったと思うと、先輩はその場にしゃがみ込んで頭を抱えた。肩が震えている。まさか。
「先輩?」
唯衣は美草の隣まで歩いた。そして先輩の肩を叩く。すると、先輩は顔を上げた。
その顔には笑みが浮かんでいた。
「あははは、あーもう俺の負け、負けた」
先輩はおなかを抱えながら笑い続けていた。唯衣と美草はしばらく呆然と見つめていたが、二人で顔を合わすと先輩と同じように笑い始めた。
笑った、笑った、先輩が、笑った。
「そろそろ教えてくださいよ、笑わない理由」
しばらく笑った後、美草はそう切り出した。先輩は少しだけ考えるような顔をすると、すんなりと答えた。
「え、これが普通だから」
「……」
返す言葉が見つからなくて無言で言うと、それを補うように先輩は続けた。
「んー、いつの間にかこんなんだったし」
「じゃあ、やっぱり友達いないんですか?」
「何で?」
「いつも一人だったから」
唯衣が真面目に答えると、また先輩は笑った。……笑ってくれるのは嬉しいけど、なんだかむかつく。
「あぁ、うん、咲野が見てたから。友達も優しいからすぐ協力してくれて」
「あれは演技だったってことですか」
「まぁそんなところだね。友達はいるし、そいつらの前だったら笑うよ、普通に」
唯衣は先輩の思惑に見事にはまっていたようだ。ということは、唯衣が見ていないときには普通に笑っていたんだ……。
唯衣の目から自然に涙が出た。それはゆっくりと頬を伝っていった。
「わ、ゴメン、うそ、泣くなって」
先輩はあの日の唯衣みたいにおろおろとして、唯衣の涙を止めようと必死だった。たぶん勘違いしているのだろう。申し訳なさそうにする先輩を見て、唯衣はそう思った。
「あーぁ、先輩、唯衣を泣かせたら私が許しませんよ?」
美草がそう横から言って、先輩は余計に焦り始めていた。
「大丈夫、です。なんか、よかったって思ったら……」
先輩は一人じゃない、と分かったら、自然に涙が出た。ただそれだけ。それだけだったから、慌てる先輩を見て気の毒に思った。
「ゴメンね」
先輩はあの日のようにそう優しく言うと、唯衣を抱きしめた。
「唯衣っ、遅い」
いきなり現れたあの笑わない先輩にクラスメイトは驚いて、一瞬しんと静かになった。そして一斉に唯衣の方を見ると、何人かの噂好きな女の子が唯衣に駆け寄る。
「唯衣ちゃんっ、あの神谷先輩とどんな関係なの!」
その迫力に押されて、唯衣は後ずさりをする。美草の方を見ると、面白可笑しそうに笑っていた。助けてくれるような気配は……一切無かった。
「た、ただ部活が一緒なだけだよ!」
「唯衣ちゃん、大丈夫? 笑わない先輩と一緒だなんて大変じゃない?」
「生憎、部活では笑いますので」
後ろから声がして、驚いて振り向くといつの間にか先輩が立っていた。女の子達は先輩の笑顔を見て顔を赤くしていた。そして唯衣の耳元で、
「ねぇ、先輩って彼女いないよね? 紹介してくれない?」
と囁いた。唯衣はあぁ、と納得したように頷いた。美草の言ったように、笑ったらかっこいいんだ。そうか。
「紹介、って何をどう紹介したらいいの?」
「ゆーい。そんな親切はしなくていいの!」
見かねた美草が横から入ってきて、唯衣の口を塞いだ。そして女の子達の方を見ると、笑顔でこう言った。
「先輩は唯衣にアタック中だから、無理だと思うよ?」
今、花壇には小さな芽が出ている。先輩と二人で植えたチューリップの芽。花言葉は『永遠の愛情』。先輩が教えてくれた。なんだか告白みたいだね、と二人は笑った。
それは、唯衣と夏の二人の花。この花が咲く春には、二人手を繋いで。
――――――二人で笑っていよう。
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あとがき。
季節外れで、季節外れじゃないお話。いかがでしたか?
これは文芸部誌新年号用として書いたものです。
この時は表紙も担当になって、大慌てでした。
初の徹夜も経験しました。数日後に寝込みましたが。
10時間近く寝たら回復したので、学校は休んでませんよ[笑]
バレンタインなのに短編すら書けそうもないので、これを。
丁度今日文芸部の友達が、
『部誌の中で好きな話だった』と言ってくれましたし。
唯衣と夏の続編も書きたいですね、時間があれば。
美草と和くんのその後、とか。
続編・番外編書きたいものがありすぎですね。
では、この物語があなたにとって大切な物語となりますよう。
2007.02.14 紗芹緋李。